察しろって、建設的な問題解決の放棄なのではないか
自分は人とのコミュニケーションが苦手な方だと思います。まぁ、つまりその時々に行うべき振る舞いが相応しくなかったり、相手の意図に気づかずにいてしまったりします。
「察しろ」自分はこの察しろっていう概念があまり好きではありません。
会社の場合だと、役割が割り振られない仕事というのが存在します。例えば、ワーキンググループとかで問題提起をし、解決策を考えます。誰がいつ、どういう風に行うのかまで落とし込まなければ、実行できないのにあまりそこまできちんと話されることはありません。とりあえず、自分にできそうなことをして、報告してってやってると「そういえば、あれは?」と思わぬタスクが急にぶん投げられます。
家庭の場合だと、やはり家事、育児が挙げられます。なぜ、お風呂を洗ってないのかと怒られたとします。理由は、汚いと思わなかったのでやる必要性が感じられなかったからなのですが、普通はぱっと見汚れがなくてもとりあえず洗うそうです。
流し物もそうです。流し物は分担が決まっていないのですが、大体家に帰るとそのままになっています。育児で疲れてるだろうし、やってあげようとは思うのですが、残飯は直接排水溝に捨ててあるし、フライパンを直接つっこんであるから油でギタギタだし、乾燥させる水切りの上はてんこ盛りで、まずここから片付けなければなりません。いや、普通にやりたくないでしょ…
それで、朝になればなぜやってないのかと助ける気持ちはないのかと怒られるわけです。
そりゃ、フラリーマンも増えますわ。
一言言えばいいんです。
これとこれは何々さんの担当で、一週間後までにやっておいてほしい。
今日は疲れて大変だったから、洗い物をして欲しい。
あいさつと一緒で一言添えるだけで、気持ちよく過ごせるのに。
察しろというのは、言わなくても自分のためにして欲しいという期待です。期待が裏切られた後には、察してくれなかった方が悪い、察してくれない人に問題があるとその人を攻撃しているに他なりません。
価値観なんて皆違うのに、言葉は全てではないけれど、言葉にしなければ伝わらないのに、なぜ察しろが市民権を得ているのかが自分にはわかりません。
まぁ、だからモテないんでしょうけどね!
フハハハハッ!!